投稿

ビングラジオ最終回原稿

  生成AIを利用して原稿を作成した架空のラジオ番組「 ビングラジオ 」の最終回の原稿です。この原稿は生成AIを使わず、YouTubeチャンネルのオーナーである私「ひとりネズミ」が作成したものです。 原稿 オープニング おはようございます。ビングラジオが始まりました。パーソナリティのめたんです。2025年3月30日、第105回目の放送です。みなさん、いかがお過ごしでしょうか? この番組は今日が最終回です。全てのコーナーは前回で終わりました。今回はこの番組のオーナーからの手紙を読みたいと思います。CMの後、読み始めます。 それでは、CMです。 ビングラジオを始めたきっかけ この番組を聴いていただき、ありがとうございます。この番組、このYouTubeチャンネルのオーナーであるひとりネズミです。 まずはこの番組を始めたきっかけについてです。 Microsoftの生成AI「bing」が登場した後、ラジオ番組に送るメッセージをbingに作らせてみました。番組名やパーソナリティ名が分かっていましたし、メッセージテーマが与えられていましたので、その情報を元に作らせてみました。実際に番組に投稿することはありませんでしたが、意外に良いメッセージが作られました。ただ、実際に投稿しても、お便りがたくさん届くような人気のラジオ番組で採用されるほどの質ではありませんでした。 bingの性能を試す目的で、聴いていたラジオ番組でメッセージテーマが与えられるたびにメッセージを作らせていたのですが、文章を作らせるためのプロンプトの一部を省略した時に、リスナーからのメッセージだけでなく、それに対するラジオパーソナリティの応答原稿まで作られました。それは私が求めていたものではなかったのですが、ラジオ番組の原稿そのものをbingに作らせることが可能ではないかと思いました。それで作らせてみることにしました。 VOICEVOXに読ませて、自分が作った原稿も混ぜる ラジオ番組の原稿ができたとしても、自分で読む気はありませんでした。自分の声に自信がないことが理由です。既にVOICEVOXは使っていましたし、YouTubeのチャンネルも持っていましたから、bingが作ったラジオ番組の原稿をVOICEVOXに読ませて、録音して、YouTubeにアップロードしました。 意外に手間がかかりました。bingを使わず...

パーソナリティになりたくないアシスタントの気持ちを考えてみた

  AはパーソナリティPのラジオ番組Rのアシスタントである。Aが出演できない日、RはPだけで放送された。Pが出演できない日、Rは休みで、Aだけで放送されることはなかった。RのリスナーLはAがパーソナリティになって放送すれば良いのにと思った。  この場合、Aの気持ちはどうなのだろうかと考えました。Pがいなくても、Lが思った通り、自分がパーソナリティとして放送したかったのか。それとも、自分はアシスタントとして仕事をしたいのか。  ラジオの業界では、数々の有名番組のアシスタントを務めて尊敬されている人がいるようです。その人はパーソナリティになりたいわけではなく、アシスタントとしての仕事に誇りを感じているのかもしれません。その気持ちは分かります。どの世界でもリーダーになりたいとは思わず、重要な仕事の役に立つことに喜びを感じる人がいて、そのような人たちのおかげで、数々の仕事が成り立っているのだと思います。  ただ、冒頭のAの気持ちには別の側面があるような気もするのです。  ラジオ番組は聴いてもらえなければ意味がありません。では、どのような番組だったら聴かれるのでしょうか。私が長年考え続けていることです。番組が面白いことが聴く条件ではあるのですが、面白いかどうかは人それぞれで、誰もが面白いと思える番組を作るのは難しいです。私の場合は、聴く番組はパーソナリティで選んでいます。パーソナリティが好きだから、パーソナリティに興味があるから、パーソナリティの話が自分にとってプラスになると思うから、そんな基準で聴く番組を選んでいます。ですから、自然に有名人がパーソナリティの番組ばかり聴いているような気がします。  それを踏まえてAの気持ちを想像してみます。パーソナリティとして実績があり有名なPがパーソナリティの番組なら聴いてもらえるけれど、実績が乏しく知名度も低いAがパーソナリティの番組は聴いてもらえるでしょうか。Aは聴いてもらえないと思うでしょう。冒頭の例はPが休みの日の話でしたが、RからPが降りてAがパーソナリティの番組になったら、Rはどうなるでしょう。おそらく、聴く人が減り、番組はすぐに終了するでしょう。Aは仕事を失うことになります。Pがパーソナリティの番組のアシスタントのままだったら、番組が終了せずに、仕事を失う恐れは減ります。そうであれば、Aはパーソナリティをやりたくない...

惰性で聞かれる番組でも良いのかもしれない

 3月になって、番組改編の時期らしく、私が聴いていたラジオ番組もいくつか終わってしまいます。面白くて人気があると思っていた番組も終わってしまいます。放送局はもっと面白い番組や役立つ番組にすれば良いと思っているのかもしれません。でも、終わってしまう番組よりも面白い番組が始まっても、役立つ番組が始まっても、これまでのリスナーは離れていくような気がします。元の番組のパーソナリティのファンは去るでしょうし、私のように惰性で聴いていたサイレントリスナーも番組が終わったのをきっかけに同じ時間の番組を聞くのをやめそうです。去ったリスナーよりも新しいリスナーの方が多ければ番組改編は成功でしょうが、期待しない方が良いかもしれません。そもそもラジオのリスナーが少ないのですから。  番組改編をきっかけにラジオ番組を聴く理由について思うことがありました。聴く理由は人それぞれでしょう。パーソナリティが自分に向かって話しかけているような気がする人、他のリスナーが仲間のような気がする人、番組にメッセージを送って読まれることが嬉しい人、読まれなくても読まれるためにメッセージを送り続けることが楽しい人、番組のコーナーが面白くて聞いている人、パーソナリティのトークが面白くて聞いている人、パーソナリティの性格や声が魅力的だから聴いている人、パーソナリティがラジオ以外で活躍していてファンだから聴いている人、いろいろな人がいると思います。サイレントリスナーの私はパーソナリティのことが気になるから聴いているような気がします。ただし、パーソナリティのことが嫌いになると聴きませんが…。  そんな私は「面白い」と思ってない番組でも聴いています。聴きながらパソコンでの作業ができるので時間の無駄だとは思いませんが、聴くことに何のメリットがなくても聴いています。だから、番組改編で番組が聴けなくなっても、何も困りません。でも、終わってしまうのが寂しい気持ちもあります。番組にメッセージを送ったことはないし、パーソナリティとの交流もないし、パーソナリティやリスナーと繋がっていたような意識もないのに寂しいのです。この寂しさについて考えていたら、もしかしたら、これがラジオ番組を聴き続けている理由なんじゃないかと思いました。  以前、ラジオ番組のパーソナリティに番組を聴いている理由を尋ねられた時に「惰性」と答えました。そのパーソナリ...

リスナーのいないラジオ番組のパーソナリティの気持ちが少し分かりました

 最近の私はラジオ番組のような音声だけのYouTube動画をアップロードしています。背景は真っ黒で、動画の主旨のようなものとコーナー名と字幕が表示されるだけの15分~21分の動画です。2023年の4月に始めて、毎週日曜日の午前8時に公開されるように設定して、2023/10/8で28回になりました。  Youtubeの管理画面では再生数の他に、どの程度再生されたか分かるのですが、最初から最後まで聴いてくれた人は一人か二人だけです。それも、一度聴いただけで、その後にアップロードした動画も聞いてくれた人、リピーターになってくれた人は一人もいません。チャンネル登録した人が一人いるのですが、その人が聴きに来てくれた気配はありません。しかも、チャンネル登録された時にマイナス評価が一度クリックされたようで、たぶん、チャンネル登録したのはアップロードの度にマイナス評価をクリックする嫌がらせのためだったのでしょう。でも、それも行われていないようです。要するに、全くの無関心という状態になっています。  一週間に一回のペースで作成しているのですが、コーナーごとに原稿を作成して、それらの原稿をVOICEVOXという 音声合成ソフトウェアの 「四国めたん」に読ませて、イントネーションなどを修正して、録音して、各コーナーの音声を組み合わせて一つの動画にして、YouTubeにアップロードした後に手動で字幕を付けるという流れです。時間がかかるので、他のことで忙しい週は徹夜したこともあります。  そこまでしてラジオ番組のようなものを作っているのですが、ちゃんと聴いている人が一人もいない状態です。再生数が二桁のことが多いのですが、ほとんどの人は最初の30秒くらいを聞いたら、閉じてしまいます。もっと短い再生時間で再生回数にカウントされるのなら、聞かれている時間はもっと短いでしょう。そんな状態ですから、作りながら虚しくなることがあります。作っても誰も聴いてくれない、作る意味があるのか、なんて思うことがあります。そう思った時に、ふと本物のラジオパーソナリティのことを思い出しました。  YouTubeライブでスタジオの様子を配信している生放送のラジオ番組のチャット欄にお邪魔した時に、私の他には誰もいなくて、とりあえずラジオで聴いていることだけを伝えて去ろうとしたら引き留められたことがあります。その当時、その番...

地元が好きでも地元の全てが好きなわけじゃないよね

  今は高校野球の真っ盛りです。甲子園で都道府県の代表校が戦っています。小さい頃は地元千葉県の高校を応援していました。いつの間にかスター選手のいる高校を応援するようになったのですが、地元の高校を応援するのが普通なのでしょう。  千葉県出身のタレントや市原市出身のタレントもいて、活躍すると何となく嬉しいし、ついつい応援しちゃうのですが、応援したくないタレントがいても良いはずです。  先日、千葉県の国会議員が閣僚になったようです。NHKの取材に千葉県知事もお祝いのコメントを寄せたようです。たぶん6年前だと思いますが、市原市から当選した国会議員が閣僚になった時、いちはらFMのパーソナリティが「頑張ってほしい」的な祝福のメッセージをラジオで仰ってました。そのパーソナリティのことを、その国会議員と言うか、その政党とは考え方が異なっていると思っていたので、「あなたが祝福するの?」と思ったのですが、それが一般的なのでしょう。私は支持してない政党だったので祝福する気が起きませんでした。  どうして私たちは地元出身の人を応援したり、活躍すると喜ぶのでょうかね。その人の人柄は関係なく地元出身というだけで応援してしまう異常さに無自覚で良いんでしょうかね。  家族が頑張っていれば応援するのは普通でしょう。友達が頑張っていれば応援するのは普通でしょう。顔見知りの親しいことが頑張っていれば応援するのは普通でしょう。でも、家族でも友達でも顔見知りでもなく全くの他人でさえ、地元出身というだけで家族や友達や顔見知りであるかのように応援してしまう。海外で活躍したり評価されたりすると日本出身というだけで家族や友達や顔見知りであるかのように応援してしまう。それって、普通かもしれないけれど異常だと思うんです。  そもそも私は「愛国心」の強制が嫌いで、それは「お国のために」と自分を犠牲にして戦った戦時中を連想するからなんですが、同じように「愛郷心」の強制も嫌いなんです。地元のことは好きでも地元のことを好きになることを強制されるのは嫌なんです。だからか、愛国心や愛郷心が丸出しの人がちょっと苦手です。私自身も愛国心が丸出しになっていることは無いと思いますが愛郷心が丸出しになっているかもしれないと反省することはあります。  愛郷心が丸出しになっているわけではなくても、地元のことは何でも肯定しかねないような危...

重要な情報を伝えたければ相手の「聴く力」を求めるだけでなく伝える側も工夫しましょう

 インターネットにアップロードされていた記事を読んだら、最近の若い人は「聴く力」が衰えているらしいです。ある大学教授が授業でラジオドラマなど音だけを聴いてもらったら学生がどうしたら良いか分からなくなったようです。聴かせた理由を教授が話してくれなければ私もどうしたら良いか分からなくなると思いますが、教授の実感としては学生の「聴く力」が衰えていたのでしょう。元々は警視庁警備部災害対策課の方が小学生の娘にラジオを聴いてもらったら「何を言っているのか聴きとれない」と言われたことをツイートしたことで話題になったのですが、その娘さんの学年は分かりませんが、ラジオで話されていたことによっては昔の子も聴き取れなかったんじゃないかと思うんです。人の話を理解するためには、事前に知識が必要なことがあります。知識の少ない小学生が「何を言っているのか聴きとれない」と言ったのは当然のような気もするんです。  57歳の私もラジオで話されていることを聴き取れないことがあります。ラジオに集中して聴いていないと何が話されていたか覚えていないこともあります。それから、若い人に限らず、「この人は話を理解してないな」と思うことがあります。話されていたことを間違って解釈していると思うことが度々あります。また、年老いた両親と話していて思うのですが、どうやら、聞き逃した言葉を補って理解しているようなんです。どのように補っているかは、たぶん経験で「このような時にはこのような話をする」とか「話の流れからこうかもしれない」と適当に推測して補っているのだと思います。年寄りに限らず、人の「聴く力」なんて、そんなものなんだと思います。だから「若い人は『聴く力』が衰えている」という意見に「違うんじゃないかな?」と思ったんです。  ラジオを聴く時間を増やせば聴く力が強くなるのはそうかもしれません。そうだとしても、ラジオを聴いていた人は昔から少なかったんじゃないでしょうか。私が幼かった頃にはテレビがありました。受験勉強の時はラジオを聴いていましたが、ラジオよりもテレビで育ったような気がします。昔と比べてラジオを聴く人が少なくなったと言われてはいますが、私と同世代や私よりも若い人はテレビが中心だったと思いますから、「聴く力」が衰えているとしたら、最近の若い人に限らず、私と同世代から衰えていると考えるのが自然な気がします。  大人にな...

呪いの言葉「おまえじゃなくてもいい」

 作家になったが本が売れずに新しい小説を複数の出版社に売り込んだけれど相手にされず、ある編集長に目の前で原稿をごみ箱に捨てられてからは小説を書こうとしても書けなくなった若い女性が主人公のドラマが放送されていまして、小説が書けなくなったのは呪いのせいという設定でした。その呪いについて「自分で自分にかけていることもある」という指摘がありました。  ドラマを見ながら自分も自分に呪いをかけていることを思い出しました。呪いの言葉は「おまえじゃなくてもいい」です。そんなことを恋人に言う人もいるようなので、そんな人とはすぐに別れた方が良いのですが、言われた方は恋愛のたびに「私じゃなくてもいい」と自分に呪いをかけてしまう人もいるでしょう。私の場合は恋愛の話ではなくて、仕事など自分以外の誰かにために何かをするたびに自分自身に対して「おまえじゃなくてもいい」という呪いをかけて「私じゃなくてもいい」とモチベーションが下がったり憂鬱になったりしています。  私が大学に進学するときに工学部を選んだのは「機動戦士ガンダム」に登場する「ハロ」のようなロボットを作りたかったからで、自分以外の誰かのためではなく自分のためでした。自分が楽しむためであれば「私じゃなくてもいい」とはなりません。例えば歌を歌って楽しみたいのに歌を聞かされるだけでは十分に楽しめません。歌うのは「私じゃなければだめ」なのです。  大学4年の時に太陽電池の研究を始めて太陽光発電の勉強もしたのですが、その頃には少しは「自分以外の誰かのため」という思いが生まれていました。就職先も太陽光発電の研究をしたくて選んだのですが、配属されたのは別の部署で、太陽光発電の研究室には別の人が配属されました。その時に「おまえじゃなくてもいい」という呪いがかかりました。「私じゃなくてもいい」と思い知らされました。  職場では自分の研究以外に実験装置の管理など他の研究者のための雑用も任させていたというか、自主的に他の研究者のために引き受けていたのですが、退職を決めた頃から私がいないことで他の研究者が困らないように「私じゃなくてもいい」という状態にしようと徐々に他人に任せるようにしていきました。そして、私が退職しても問題が生じなかったようなので、その事実が私に「おまえじゃなくてもいい」と言っているようなものでした。  退職してからは心理カウンセリングや精神...