呪いの言葉「おまえじゃなくてもいい」

 作家になったが本が売れずに新しい小説を複数の出版社に売り込んだけれど相手にされず、ある編集長に目の前で原稿をごみ箱に捨てられてからは小説を書こうとしても書けなくなった若い女性が主人公のドラマが放送されていまして、小説が書けなくなったのは呪いのせいという設定でした。その呪いについて「自分で自分にかけていることもある」という指摘がありました。
 ドラマを見ながら自分も自分に呪いをかけていることを思い出しました。呪いの言葉は「おまえじゃなくてもいい」です。そんなことを恋人に言う人もいるようなので、そんな人とはすぐに別れた方が良いのですが、言われた方は恋愛のたびに「私じゃなくてもいい」と自分に呪いをかけてしまう人もいるでしょう。私の場合は恋愛の話ではなくて、仕事など自分以外の誰かにために何かをするたびに自分自身に対して「おまえじゃなくてもいい」という呪いをかけて「私じゃなくてもいい」とモチベーションが下がったり憂鬱になったりしています。

 私が大学に進学するときに工学部を選んだのは「機動戦士ガンダム」に登場する「ハロ」のようなロボットを作りたかったからで、自分以外の誰かのためではなく自分のためでした。自分が楽しむためであれば「私じゃなくてもいい」とはなりません。例えば歌を歌って楽しみたいのに歌を聞かされるだけでは十分に楽しめません。歌うのは「私じゃなければだめ」なのです。
 大学4年の時に太陽電池の研究を始めて太陽光発電の勉強もしたのですが、その頃には少しは「自分以外の誰かのため」という思いが生まれていました。就職先も太陽光発電の研究をしたくて選んだのですが、配属されたのは別の部署で、太陽光発電の研究室には別の人が配属されました。その時に「おまえじゃなくてもいい」という呪いがかかりました。「私じゃなくてもいい」と思い知らされました。
 職場では自分の研究以外に実験装置の管理など他の研究者のための雑用も任させていたというか、自主的に他の研究者のために引き受けていたのですが、退職を決めた頃から私がいないことで他の研究者が困らないように「私じゃなくてもいい」という状態にしようと徐々に他人に任せるようにしていきました。そして、私が退職しても問題が生じなかったようなので、その事実が私に「おまえじゃなくてもいい」と言っているようなものでした。
 退職してからは心理カウンセリングや精神医療の勉強をしたり精神保健福祉士の資格も取得したのですが、それは心の病で苦しんでいる人たちを救いたかったからで、特に精神科の患者の「理解してもらえない」という辛さを解決するために彼らの辛さなどを理解してくれる社会にしたいという思いがありました。でも、NHKがうつ病の理解を広めるキャンペーンを行ったり、うつ病だけでなく双極性障害や統合失調症の芸能人がカミングアウトしたりして、私が何もしなくても患者の思いは広まりました。私が精神保健福祉士の資格を取得した時と比べると段違いに理解は進んでいます。その事実も私に「おまえじゃなくてもいい」と言っているようなものでした。
 市原市に帰ってきてからは障碍者に優しい地域になってくれるようにと、そのためには住民に精神的な余裕が必要で、そのためには住民に金銭的な余裕も必要だろうと、市原市の活性化を願いました。そのために自分に何ができるのだろうかと考えていましたが結局は何もやっていませんでした。でも、その間に多くの人が市原市のために活躍していて、その中には私よりも若い人たちもたくさんいて、「私じゃなくてもいい」という状態になっています。私は自分に「おまえじゃなくてもいい」と改めて呪いをかけました。

 今の社会に対して私は何ができるのだろうかと考えることがあります。でも、そのたびに「おまえじゃなくてもいい」という呪いの言葉が浮かんできます。「私じゃなくてもいい」は真実でしょう。活躍中の多くの有名人の中には別の誰かではダメな場合もあるでしょうが、ほとんどの仕事は代わりの人でも大丈夫で、ちゃんと休めるように代わりの人がいないとダメな場合がほとんどです。それは「おまえじゃなくてもいい」と言っているようなものです。長い休業の後に職場に復帰しても自分の仕事は他の人が担当していて十分に活躍していたりすると「おまえじゃなくてもいい」と言われているように感じたりもするでしょう。それが現実で、たいていの人が無言の「おまえじゃなくてもいい」という呪いをかけられているはずです。
 自分以外の誰かのために何かをすると「ありがとう」と言われて、「あなたがいてくれて良かった」とか「あなたで良かった」とか「あなたじゃないとだめだ」とか言われたりすることもあるでしょう。それは本心で嘘ではないでしょう。でも、客観的に見たら、それは本当でしょうか。本当に自分じゃなければだめだったのでしょうか。

 今の社会には人手不足の業界があって、その業界で働く能力があれば誰でも良いのですが、人手不足だと代わりの人がいない状態になります。自分が皆と同じ部品の一つでも数が揃わないと困る場合には必要な存在になります。「おまえじゃなくてもいい」「私じゃなくてもいい」は事実ですが、それは代わりの人が現れてからのことで、代わりの人がいない状態では「おまえじゃなくてもいい」「私じゃなくてもいい」という呪いの言葉は無効にしておかなければいけません。
 極端な例えでは、道を歩いていたら倒れていた人がいたとして近くに自分しかいない場合に「私じゃなくてもいい」なんて言ってられません。自分が助けるしかありません。あるいは、自分が助けを呼ぶしかありません。
 「おまえじゃなくてもいい」は「おまえの代わりがいる」ということで、本当に代わりがいるのならば「おまえじゃなくてもいい」は事実です。でも、代わりがいない状態ならば、「おまえじゃなくてもいい」という呪いの言葉はかけられません。むしろ、「あなたがいてくれて良かった」とか「あなたじゃないとだめだ」の方が本当でしょう。そんな言葉をかけられた時、本当に自分じゃなければだめだったのだと思います。

 「おまえじゃなくてもいい」とは逆の「あなたじゃないとだめだ」が呪いの言葉になることもあります。呪いを自分で自分にかけてしまって「私じゃなければだめだ」と代わりの人がいるのに離れられなくなることがあります。束縛の呪いです。例えば、家族を介護している人の中には「あなたじゃないとだめだ」と言われて「私じゃなければだめだ」と自分に呪いをかけている人がいるような気がします。そんな人にとっては「おまえじゃなくてもいい」という言葉は自分の役割を奪う呪いの言葉に聞こえるかもしれませんが、実は束縛の呪いを解く解放の言葉でもあります。

 呪いの言葉「おまえじゃなくてもいい」について書いていたのに、ポジティブな話になっちゃいましたが、自分の存在を否定したくならないために必要なだけで、「おまえじゃなくてもいい」が呪いの言葉であるのは変わりません。自分で自分に呪いをかけて「私じゃなくてもいい」と思う癖がついたら私のように腰が重くなるでしょう。自分以外の誰かのために何かをしていても、代わりの人が現れたら一歩下がってしまうでしょう。一歩下がるだけでなく、その場から離れてしまうこともあるでしょう。
 だから自分で自分に呪いをかけない方が良いし、自分で自分に呪いをかけちゃったのなら、その呪いは解いた方が良いです。でも、今の私は呪いを解く気になってません。たぶん、私を必要としてくれる人が現れるまでは解けないでしょう。幸い、家族といる時だけは「おまえじゃなくてもいい」「私じゃなくてもいい」という呪いの言葉が無効になっています。逆に「私じゃなければだめだ」という束縛の呪いをかけて家族から離れないようにしています。そして、その呪いが解けないことを願っています。