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重要な情報を伝えたければ相手の「聴く力」を求めるだけでなく伝える側も工夫しましょう

 インターネットにアップロードされていた記事を読んだら、最近の若い人は「聴く力」が衰えているらしいです。ある大学教授が授業でラジオドラマなど音だけを聴いてもらったら学生がどうしたら良いか分からなくなったようです。聴かせた理由を教授が話してくれなければ私もどうしたら良いか分からなくなると思いますが、教授の実感としては学生の「聴く力」が衰えていたのでしょう。元々は警視庁警備部災害対策課の方が小学生の娘にラジオを聴いてもらったら「何を言っているのか聴きとれない」と言われたことをツイートしたことで話題になったのですが、その娘さんの学年は分かりませんが、ラジオで話されていたことによっては昔の子も聴き取れなかったんじゃないかと思うんです。人の話を理解するためには、事前に知識が必要なことがあります。知識の少ない小学生が「何を言っているのか聴きとれない」と言ったのは当然のような気もするんです。  57歳の私もラジオで話されていることを聴き取れないことがあります。ラジオに集中して聴いていないと何が話されていたか覚えていないこともあります。それから、若い人に限らず、「この人は話を理解してないな」と思うことがあります。話されていたことを間違って解釈していると思うことが度々あります。また、年老いた両親と話していて思うのですが、どうやら、聞き逃した言葉を補って理解しているようなんです。どのように補っているかは、たぶん経験で「このような時にはこのような話をする」とか「話の流れからこうかもしれない」と適当に推測して補っているのだと思います。年寄りに限らず、人の「聴く力」なんて、そんなものなんだと思います。だから「若い人は『聴く力』が衰えている」という意見に「違うんじゃないかな?」と思ったんです。  ラジオを聴く時間を増やせば聴く力が強くなるのはそうかもしれません。そうだとしても、ラジオを聴いていた人は昔から少なかったんじゃないでしょうか。私が幼かった頃にはテレビがありました。受験勉強の時はラジオを聴いていましたが、ラジオよりもテレビで育ったような気がします。昔と比べてラジオを聴く人が少なくなったと言われてはいますが、私と同世代や私よりも若い人はテレビが中心だったと思いますから、「聴く力」が衰えているとしたら、最近の若い人に限らず、私と同世代から衰えていると考えるのが自然な気がします。  大人にな

呪いの言葉「おまえじゃなくてもいい」

 作家になったが本が売れずに新しい小説を複数の出版社に売り込んだけれど相手にされず、ある編集長に目の前で原稿をごみ箱に捨てられてからは小説を書こうとしても書けなくなった若い女性が主人公のドラマが放送されていまして、小説が書けなくなったのは呪いのせいという設定でした。その呪いについて「自分で自分にかけていることもある」という指摘がありました。  ドラマを見ながら自分も自分に呪いをかけていることを思い出しました。呪いの言葉は「おまえじゃなくてもいい」です。そんなことを恋人に言う人もいるようなので、そんな人とはすぐに別れた方が良いのですが、言われた方は恋愛のたびに「私じゃなくてもいい」と自分に呪いをかけてしまう人もいるでしょう。私の場合は恋愛の話ではなくて、仕事など自分以外の誰かにために何かをするたびに自分自身に対して「おまえじゃなくてもいい」という呪いをかけて「私じゃなくてもいい」とモチベーションが下がったり憂鬱になったりしています。  私が大学に進学するときに工学部を選んだのは「機動戦士ガンダム」に登場する「ハロ」のようなロボットを作りたかったからで、自分以外の誰かのためではなく自分のためでした。自分が楽しむためであれば「私じゃなくてもいい」とはなりません。例えば歌を歌って楽しみたいのに歌を聞かされるだけでは十分に楽しめません。歌うのは「私じゃなければだめ」なのです。  大学4年の時に太陽電池の研究を始めて太陽光発電の勉強もしたのですが、その頃には少しは「自分以外の誰かのため」という思いが生まれていました。就職先も太陽光発電の研究をしたくて選んだのですが、配属されたのは別の部署で、太陽光発電の研究室には別の人が配属されました。その時に「おまえじゃなくてもいい」という呪いがかかりました。「私じゃなくてもいい」と思い知らされました。  職場では自分の研究以外に実験装置の管理など他の研究者のための雑用も任させていたというか、自主的に他の研究者のために引き受けていたのですが、退職を決めた頃から私がいないことで他の研究者が困らないように「私じゃなくてもいい」という状態にしようと徐々に他人に任せるようにしていきました。そして、私が退職しても問題が生じなかったようなので、その事実が私に「おまえじゃなくてもいい」と言っているようなものでした。  退職してからは心理カウンセリングや精神

自分のためか? 自分以外の誰かのためか?

 私は自分以外の誰かのために生きたくて、自分のために生きるだけなら生きられなくてもいいと思っているのですが、自分以外の人が自分のために生きることについては、それでいいと思ってるんです。むしろ生き続けてほしいと思ってるんです。それならば自分自身にも生き続けてほしいと思えば良いのに、自分自身は例外にしちゃってるんですよね。だからと言って死んだりはしませんが…。  最初から自分以外の誰かのために生きたかったわけではなくて、若い頃は自分のために生きてきました。自分以外の誰かのために何もしなかったわけではないのですが、基本的には自分のやりたいことをやるために生きてきました。無事に研究職について好奇心を満足させながら働いていました。夢が完全に叶ったわけではないですが半分くらいは叶ったような気がします。退職後も3年くらい日本を放浪していて、それも学生時代に叶えたかった夢の一つで十分に満足できました。そうやって自分のために生きてきたんですよね。だから、もう自分のために生きなくてもいいんじゃないかなと思っていて、じゃあ何のために生きるかということで、自分以外の誰かのために生きることにしたんです。「自分以外の誰かのために」というのは働いている時も同じで「自分の仕事が社会の役に立つように」と思っていたんですが、役立ちそうになくて続ける気が失せちゃったんですよね。その時に別の「役に立つ仕事」をしようと思ったわけですが、残念ながら退職してからは3回くらい半年ずつくらいアルバイトしただけです。  自分のことはともかく、自分以外の人の様子を見ていると、自分の夢を叶えるために頑張っている人がたくさんいるような気がします。その夢が自分以外の誰かのためになる仕事の場合もありますが、たいていは自分のためなんですよね。なりたい自分になる。そんな感じで、どうしてなりたいのかがなかなか見えてこないんです。憧れの人がいて、その人のようになりたいという気持ちも分かるのですが、なって、同じことをして、その先が見えてこないんです。なれてない状態ではなった後のことは考えられないかもしれませんが…。それが悪いことだとは思わないし、自分も同じだったんですが、「それで良いのだろうか?」と疑問を感じることもあります。  自分のために生きることに疑問を感じるのは、自分以外の誰かのためになることをした方が良いと思ってるからなんです