自分のためか? 自分以外の誰かのためか?
私は自分以外の誰かのために生きたくて、自分のために生きるだけなら生きられなくてもいいと思っているのですが、自分以外の人が自分のために生きることについては、それでいいと思ってるんです。むしろ生き続けてほしいと思ってるんです。それならば自分自身にも生き続けてほしいと思えば良いのに、自分自身は例外にしちゃってるんですよね。だからと言って死んだりはしませんが…。
最初から自分以外の誰かのために生きたかったわけではなくて、若い頃は自分のために生きてきました。自分以外の誰かのために何もしなかったわけではないのですが、基本的には自分のやりたいことをやるために生きてきました。無事に研究職について好奇心を満足させながら働いていました。夢が完全に叶ったわけではないですが半分くらいは叶ったような気がします。退職後も3年くらい日本を放浪していて、それも学生時代に叶えたかった夢の一つで十分に満足できました。そうやって自分のために生きてきたんですよね。だから、もう自分のために生きなくてもいいんじゃないかなと思っていて、じゃあ何のために生きるかということで、自分以外の誰かのために生きることにしたんです。「自分以外の誰かのために」というのは働いている時も同じで「自分の仕事が社会の役に立つように」と思っていたんですが、役立ちそうになくて続ける気が失せちゃったんですよね。その時に別の「役に立つ仕事」をしようと思ったわけですが、残念ながら退職してからは3回くらい半年ずつくらいアルバイトしただけです。
自分のことはともかく、自分以外の人の様子を見ていると、自分の夢を叶えるために頑張っている人がたくさんいるような気がします。その夢が自分以外の誰かのためになる仕事の場合もありますが、たいていは自分のためなんですよね。なりたい自分になる。そんな感じで、どうしてなりたいのかがなかなか見えてこないんです。憧れの人がいて、その人のようになりたいという気持ちも分かるのですが、なって、同じことをして、その先が見えてこないんです。なれてない状態ではなった後のことは考えられないかもしれませんが…。それが悪いことだとは思わないし、自分も同じだったんですが、「それで良いのだろうか?」と疑問を感じることもあります。
自分のために生きることに疑問を感じるのは、自分以外の誰かのためになることをした方が良いと思ってるからなんですよね。でも、世の中を観察していると、自分のために何かをしていることが自分以外の誰かのためになっていることが多いんです。例えば、ミュージシャンはファンのために歌を作って歌っていることになっていますが、もともとは自分のためですよね。脚光を浴びたいとか、男子の場合は女子にもてたいとか、そんな動機で歌っていたら自分の歌が求められるようになって結局は自分以外の誰かのために歌うことになってます。芸術系の仕事はほとんどが自分のためで、他の人に求められるようになって自分以外の誰かのための仕事になってます。求められるようになっても「誰かのために」なんて思う必要が無くて、相変わらず「自分のために」仕事をし続けて自分以外の誰かのためになってます。だから、自分のために生きるだけでいいんですよね。自分の夢を叶えようとする生き方でいいんですよね。
私の昔の仕事は社会の役に立つものを作るための研究だったのですが、純粋に知りたいことを知るための研究、未解明の仕組みを解明するための研究もあるわけです。科学者たちの仕事のことです。「何の役に立つんだ?」などと批判されたりして「将来は役に立つかもしれない」とか「これこれこういうことに役立つ」とか言い訳することもあるのですが、そんな言い訳は必要ないんですよね。知りたいことを知ろうとして研究して発表する。その発表を見ることで同じように知りたかった他の誰かが喜ぶ。十分に自分以外の誰かの役に立っているんですよね。知って喜んでいるのは一部かもしれませんが、全ての人を喜ばす必要なんかないんです。歌だって他の芸術だって全ての人に好かれるものなんかありません。一部の人に好かれているだけです。ほとんどの仕事が全ての人の役に立っているわけではなく一部の人の役に立っているだけです。だから、一部の人の役に立つだけでいいんです。そんな科学者たちも「自分のために」仕事をして、結果として自分以外の誰かのためになっているわけです。
そう言えば、科学者ではありませんがジャーナリストの立花隆さんも自分が知りたいことを知るために勉強して取材して本などにまとめて発表していたようです。田中角栄元首相のことを書いた記事で注目された人ですが、彼が興味を持っていたのは科学の分野だったようです。彼も「自分のために」仕事をして、彼の本を読みたい自分以外の誰かのためになっていたわけです。先日のテレビ番組によると、全く「自分のため」というわけではなくて、自分の得た知識が未来に役立つことになれば嬉しかったようです。「立花隆のお陰」のような役立ち方ではなく、新たな発見や知見を生む源泉となる膨大な知識の一部となれば良いと思っていたようです。
では、逆に、自分以外の誰かのために働いている人たちは、本当に自分以外の誰かのためだけなんでしょうか。よくある話が障碍者のヘルパーたちが介助している障碍者に教わってるなんて言ったりします。自分以外の誰かのために働くことが自分のためになっているという構図です。他の仕事だって同じです。もちろん、他の誰かのために働くことで金を稼いで生活しているのだから結局は自分のためということはあるでしょう。でも、そんなことだけではなく、働くことで自分の役割や居場所を与えてもらっているようになって生きていられるという人もいるようです。ある難民キャンプでシリアからの若い難民の多くが自殺したそうです。母国では何らかの役割を持っていた彼らが支援されるばかりの難民になって役割が無いことで自殺したようです。支援者が彼らの居場所を作って、他の難民のために何かをする役割が生じたことで「私にもできることがある」と生きる意味を見つけて生きられるようになったそうです。自分以外の誰かのために何かをしないと「生きたい」と思えない人たちが多いのではないでしょうか。彼らは自分のために働いているようなものです。そんな大きな話でなくても、自分以外の誰かの役に立ったら嬉しいと思う人は多いでしょう。自分以外の誰かのために働くことは、自分が喜ぶため、自分のためになっているんですよね。
よく利己的ではなく利他的であることが求められたりしますが、自分以外の誰かのために行動することが自分のためになっていたり(利他的な利己)、自分のために行動しているのだけど自分以外の誰かのためになってること(利己的な利他)がありますよね。純粋な「利己」や「利他」は無いかもしれません。それならば、利己的でもいいと思うのです。自分のために生きてもいいし、自分以外の誰かのために生きてもいいと思うんです。
問題は、生きるための生活費です。生活費を稼ぐ仕事は全て自分以外の誰かのために何かをすることです。自分以外の誰かのために何かをしていないと生きてはいけないような社会になっています。そうではなくて、意識的に自分以外の誰かのために働かなくても、例えば自分のために夢を追い続けるだけでも生きていることが許される社会になってほしいと思うのです。生活費を稼ぐためにアルバイトをする必要が無く、夢を叶えるための努力をしていれば良い。そんな社会になってほしいと思っているんです。そして、そんな社会にすることは可能なんです。そんな社会になるかならないかは、皆がそんな社会にしたいと思うか思わないかで決まります。
皆が自分は生きているだけで良いと思える社会、皆が他の誰に対しても「生きていてほしい」と思い、助けられる人は助け、生きることを妨げない社会を私は望んでいます。