「働く」の定義を改めてみませんか?
「働かざる者食うべからず」という慣用句を聞いたことがあると思います。働いてなかったりサボっている人に対して気軽に口にした人もいると思います。でも、人は食べないと死んじゃいますよね? それでいいんでしょうか?
働いてない人はたくさんいます。例えば小学生など児童。今の時代は児童労働を撲滅しようと頑張ってる人たちがいますが、彼らの運動は間違いで、本当は児童も働くべきなんでしょうか?
児童の他にも乳幼児、お年寄り、病気などで動けない人、働きたくても雇ってもらえない人など働いてない人はたくさんいます。彼らは食べてはいけないのでしょうか?彼らは死ぬべきなのでしょうか?
「働かざる者食うべからず」は「働けるのに働かざる者食うべからず」という意味だと狭く解釈して乳幼児や児童やお年寄りや病気などで働けない人や働きたくても雇ってもらえない人などを除外しようとする人もいます。それなら、働けるのに働いていない人は食べてはいけないのでしょうか? 彼らは死ぬべきなのでしょうか?それでいいんでしょうか?彼らが死んでも良いと思っている自分のことをどう思いますか?
ところで、働いていても、あるいは働いているように見えても、賃金を受け取ってない人たちもいます。ボランティアや専業主婦(主夫)などです。彼らは働いているのでしょうか? それとも働いてないのでしょうか? 彼らも「働いている」としたら、「働く」ってどういうことでしょうか? どんな条件を満たせば「働いている」と言えるのでしょうか?
ボランティアも専業主婦も、自分以外の誰かのために何かをしています。賃金を受け取って働いている人も自分以外の誰かのために何かをしています。対価を受け取るか受け取らないかの違いしかないように見えるのです。金銭以外の対価を受け取っていると反論する人もいるかもしれませんが、同じ仕事なら賃金を受け取って働いていたとしても金銭以外の対価を受け取っているはずです。もし、ボランティアや専業主婦のことを「働いている」とするのなら対価の有無は関係ありません。自分以外の誰かのために何かをしたら、それは「働いている」と言って良いのではないでしょうか?
「働く」を「自分以外の誰かのために何かをする」と定義するのなら、ボランティアや専業主婦以外にも働いている人はたくさんいます。自分以外の誰かのために何かをしようと意識して無賃金で実行すればボランティアでしょうが、自分以外の誰かのために何かをしようと意識していないのに自分以外の誰かのために何かをしてしまう人もいます。癖のように自然に人助けをして感謝されたことはありませんか?
産まれただけで喜ばれる赤ちゃん。笑顔を見せるだけで喜ばれる乳幼児。死なないで欲しい、生きていて欲しいと子に思われている老親たち。病気などで働けなくても、身体を動かすことができなくても家族や友人たちに生きていて欲しいと思われている人たち。病気でなくて働けるのに働いてないけれど、家族や友人たちに生きていて欲しいと思われている人たち。彼らは皆、生きているだけで自分以外の誰かのためになっています。すなわち、彼らは皆、生きているだけで働いています。誰かに「生きていて欲しい」と思われていれば、その人は生きているだけで働いていることになります。私はそんな考え方が好きです。
狭い定義で働いている人たち、すなわち賃金を受け取って働いている人たちは毎日24時間働いているわけではありません。働いている時もあれば働いていない時もあります。働いている日もあれば働いてない日もあります。だから、広い定義で働いている人たち、すなわち自分以外の誰かのために何かをしている人たちも、毎日24時間働く必要はありません。自分以外の誰かのためではなく自分のために生きている時があっても良いし、自分のために生きている日があっても良いはずです。
もし、誰の役にも立っていないように感じられて、誰にも必要とされていないように感じられて、誰にも「生きていて欲しい」と思われていないように感じられたら、その時は休む時なのかもしれません。その時は「生きてる必要ないや」って思うかもしれませんが、いつかは休み明けが来ます。そして「生きていなきゃ」と思う時が来ます。だから、誰かの役に立ちたいのなら、誰かに必要とされたいのなら、自分のことを「生きていて欲しい」と思ってくれる人に出会いたいのなら、休み明けまで生きている必要があります。
ところで、 金銭で対価を受け取らずに働いている人たちは所得税を納めることがありません。買い物などで消費税は支払っていますが、所得税を支払っている人たちから見れば「税金を納めていない人たち」です。彼らの生活を税金で支えることには反対ですか? 自分が支払った税金が自分以外の人のために使われるのが嫌だという気持ちは分かります。実際は自分が支払った税金が誰のために使われているかなんて分からず、自分のために使われているのかもしれないし、自分の生活の一部も他の人の税金が無ければ成り立たないのですが、それでも税金を納めていない人の生活を税金で支えるのは嫌かもしれません。嫌だからと、税金で彼らの生活を支えなかったら彼らは飢えて死んでしまうかもしれません。それでも良いのでしょうか?彼らを見殺しにする自分のことを許せますか?
私は生活を税金で支える人とそうでない人を分けるのではなく、皆の生活を税金で支えて、要するに国が分け隔てなく全員に同額の金銭を支給して、そのための財源を皆の所得から一定の割合で徴収すれば良いと思っています。そうすれば皆が国から金銭を受け取っているのですから「あいつらだけが国から金を受け取りやがって」などという妬みによる分断が生じにくいかもしれません。納めた税金の額の違いで妬みが生じるかもしれませんが…。
さて、今の私は狭い定義では働いていません。でも、幸いなことに私の両親は私のことを必要としてくれていて、私に生きていて欲しいと思っているようなので、広い定義では働いています。生きているだけでなく、力仕事や高い所の作業、パソコンを使えない彼らに代わってインターネットで買い物をしたり、彼らが知りたいことをネット検索で調べて教えてあげたり、壊れた物を修理したり、非通知電話に対応したり、来客時に玄関のドアを開けて確認して来客を知らせたり、いろいろと細かい仕事もしています。両親にとっては、いつでもそばにいて自分にできないことを頼める便利な存在でもあります。住む部屋を用意して、食事を出して、電気代、水道代、ガス代、灯油代を代わりに支払って、国民健康保険の保険料も支払って、それだけの負担で私を雇っているようなものです。微々たる額ですがNHKの受信料は両親の代わりに私が支払っています。
両親がいなくなったら、私を必要としてくれる人はいるのでしょうか?私に生きていて欲しいと思ってくれる人はいるのでしょうか? それは分かりません。たぶん、私を必要としてくれる人が現れるまで休むことにして、自分のために生きるでしょう。日本をママチャリで放浪していた時のように…。
これで、 「働く」ということについて以前の記事で書き残していたことは全部書いたような気がします。
今の日本は働いてない人は社会の負担だから生きていて欲しくないような風潮がありますが、私は、誰でも生きている人は皆、生きていて良いのだと思っています。だから「働かざる者食うべからず」という言葉が嫌いで、反論したくなります。
ただ、「働く」の定義を上に書いたように変えちゃうと、生きている人は誰でも働いているのだから、論理的には働いてない人は既に死んでいて何も食べることができないのだから、「働かざる者食うべからず」は「死者は食べるな」ということで、おかしなことを言っていることになります。「働かざる者食うべからず」という考え方が良いか悪いか以前に、その慣用句の存在意義さえなくなってしまいます。
ボランティアや家事のことがあるので、「働く」の定義を金銭を稼ぐ仕事をすることだけに狭められないことは多くの人が気付いていると思います。それならば、金銭を稼ぐ仕事をすることであるかのような「働く」の定義を改めた方が良いと思います。私は「自分以外の誰かのために何かをする」と改めることを提案します。いかがでしょうか?