十分なお金があっても、人は誰も働きたいんじゃないかな?
かなり前にインターネットの掲示板か質問箱かに「お前は金のために働いているのか?」と言われて傷ついたと書いていた人がいました。それに対して私は「今の私はお金のために働いています。お金のために働いても良いと思います。でも、お金だけのために働いていたら寂しいです」と書いたような気がします。
それは辞めた元の職場の上司に誘われて3年ぶりに元の職場で働いていた頃だったと思います。当時の私にとっては高収入な「年収500万」に魅かれて働いていました。本当にお金のためだったのです。仕事に対する情熱も辞める前よりも落ちていました。だから、あの頃の私も寂しい働き方をしていたような気がします。夢のためとか社会のためとか出世のためとか自分の好奇心を満たして楽しむためとか、何か目標があったら良かったのですが、当時の私の関心はそこでの仕事とは別の所にありました。
今の私が「お前は金のために働いているのか?」と言われて傷ついた人に答えるとしたら以前とは少し違います。「お金のために働いても良いと思います。生活するため、生きるため、お金を稼ぐ必要があるでしょうし、お金だけのために働くしかない人もいると思います。そんな彼らは『お前は金のために働いているのか?』と責められても『そうですが、何か問題でも?』という感じかもしれません」と答えそうです。昔の私は貧困問題に関心が無くて、夢のためとか社会のためとか出世のためとか自分が楽しむためとか、そんなことを考える余裕がない人たちがたくさんいることを知りませんでした。そんな人たちからしたら「お前は金のために働いているのか?」と言われて傷つくような人は幸せかもしれません。
もう一つ、昔の私とは違うことがあります。それは精神保健福祉士になるために障害者福祉の勉強をしたことです。障碍者に対する支援の一つに「就労支援」があります。障碍者に限らず失業中の人に対しても「就労支援」が行われるのですが、障碍者への就労支援は失業者への就労支援と目的が違う気がします。失業中の人は働いて生活費を稼がないと生活できないから就労支援が必要なのに対して、障碍者に対する「就労支援」には「社会参加」という目的があります。まるで働いていないと社会参加してないみたいで嫌な感じですが、働きたいのに働ける所が無くて働かせてもらえない障碍者たちが働けるように支援が必要なんです。そう書くと失業者への就労支援と変わらないような気がするのですが、とにかく生活費を稼ぐことが第一の目的ではないようなのです。お金に関して、親や兄弟など家族の援助には限界があるでしょうし、行政からの支給も不十分でしょうから、足りない分を補う意味では生活費を稼ぐことが目的かもしれません。でも、親が裕福で生活費に困ることが無くても、行政からの支給が十分だったとしても、彼らは働きたいんじゃないかと思うんです。生活費を稼ぐために働いている人や「働きたくねー!一生遊んで暮らしたい」とか言っている人は彼ら障碍者が働きたがることを不思議だと思いませんか?
もしも100歳を過ぎて寿命で亡くなるまで生活に困らないくらい十分な貯蓄があったら、人は働かなくなるのでしょうか。働くとしたら、何故でしょうか。遊ぶ金や趣味に使う金を増やすためでしょうか。もっと贅沢な暮らしをするためでしょうか。それとも、お金を稼ぐ以外の目的があるのでしょうか。実際、ビル・ゲイツさんのように超金持ちでも働いています。働いたことで金を稼いでいるかどうかは分かりませんが、彼の活動は「働いている」と言って良いと思います。彼は「一生遊んで暮らしたい」なんて思ってないでしょう。他の金持ちも働いています。それ以上の金は必要ないだろうと思えるのですが働いています。
私には十分な貯蓄はありません。でも、十分な貯蓄があっても働きたいです。働いてしまうと思います。お金は欲しいですが、お金のためではなく働きたいです。何かになりたいというような夢があるわけではありませんが、働きたいです。自分以外の誰かのために何かをしたい。そんな欲求があるんです。
実は、この記事ではもっと書きたいことがあって、文章がまとまらずに放置していました。家事やボランティアのこととか、働いてないように見える幼い子のこととか、そもそも生きていることしかできてないように見える人たちのこととか、自分は社会の役に立ってないと思っている人のこととか、「働かざる者食うべからず」という慣用句についてとか、そもそも「働く」って何だろうとか、そんなことについて書きたいと思っていました。でも、なかなかまとまらず、2022年になって一カ月が過ぎて区切りが良いので、ここでいったん終わります。書きたかった他のことは時間に余裕ができたら書きます。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。