役に立たない仕事を辞めて役に立つ仕事をするために故郷に帰ってきたけれど役に立つ仕事どころか何の仕事もしないまま四半世紀が過ぎました。
「ひとりネズミ」はラジオネームで本名は隠しているわけですが、番組に送ったメッセージが読まれた時にラジオから本名が流れて私を知っている地元の人に聞かれたら恥ずかしいなと思ったからですし、さらにラジオのリスナーは本名ではなくラジオネームを使うのが普通のようでしたから私も「ひとりネズミ」を名乗る前からラジオネームでメッセージを送っていたわけです。素性と言うか私が何者かについても隠すほどではないのに隠していたかもしれません。それも、「ひとりネズミ」と本名が結びつくヒントになっちゃうからですが、自意識過剰と言うか、私に興味がある人はほとんどいないのだから隠す必要はないよなと思っている今日この頃です。
私のもう一つのTwitterアカウントのプロフィールには、この記事を書き始めた時には、次のように書いてありました。
無職。金がかかる外出を避けてネットとテレビ中心の生活。ペーパードライバー歴30年以上。ペーパーPSW歴約20年。科学技術系研究者⇒日本放浪のママチャリダー⇒科学技術系研究者⇒無職PSW。 空気が読めない男だと言われても長いものには巻かれない。基本的には「和を以て貴しとなす」の方針だけど、許せないことは許さない性格。
このプロフィールで私のことを知っている人は誰だか分かるでしょうし、私の元の職場の人も分かるかもしれません。「科学技術系研究者」と言うのは「電子技術総合研究所」という国の研究所の研究者でしたということで、その研究所は私が退職した後の中央省庁再編で産業技術総合研究所という独立行政法人の一部になっちゃいましたが、そこで6年間働いた後にママチャリに乗って日本を放浪していました。放浪と言っても、旅の初期に出会った小さな子に「日本一周するの?」と尋ねられて、それも良いかもしれないと太平洋側を走って北海道まで行って、北海道も一周はしたけれど観光地として魅力的な所が多くて行ったり来たりの放浪をして、日本海側を下って九州、沖縄まで行って、本州の太平洋側を帰ってくる途中で四国に寄って、四国一周を終えた後に今治で車に跳ねられて自転車をスクラップにして少し入院して飛行機で市原市まで帰ってきました。市原市に帰ってきたら名前が変わっていた元の職場の上司に誘われて元の職場で契約社員の研究者として働きました。それが「日本放浪のママチャリダー」の後の「科学技術系研究者」です。ブランクが長くて復帰しても成果を出すことができずに2年間で契約更新してもらえなくなって、また市原市に帰ってきました。放浪中からと言うか放浪前から考えていた「心」系の仕事をするために契約社員の研究者だった頃に精神保健福祉士の受験資格を得るために専門学校の通信教育で勉強していて、市原市に戻ってからも継続して卒業後に受験して平成15年の3月に合格して4月に精神保健福祉士として登録されたわけです。偏見と差別で苦しんでいる精神障碍者が地域で苦しまずに暮らせるようにしたいと思いまして、暮らしやすくするにはどの地域が良いかという選択で、やはり地元の市原市を選んだわけですが、専門学校の講師に言われていた通り、仕事先は見つからずに「無職PSW」となったわけです。「PSW」とは「Psychiatric Social Worker」の略で精神保健福祉士のことです。今知ったのですが、今では「Mental Health Social Worker」(MHSW) なんですね。そんなことも知らない精神保健福祉士になっちゃいました。上に引用したプロフィールは修正しました。
さて、「電子技術総合研究所」を辞めた理由ですが、人間関係を含めて職場環境は良かったので嫌になって辞めたわけではないです…と言いたいのですが、深く考えると「そこで働く自分」が嫌になったと言うか、自分がそこで働き続けることに疑問を感じたからなんです。仕事は自分の知的好奇心を満たしてくれて楽しかったし、宿舎に帰らずに朝まで働いていても苦にならなかったし、それなりの成果は出していたのですが、自分の仕事の社会的な意義には疑問を感じていたんですよね。もともと「これからは太陽光発電の時代だ」と思って職場を選んで大学では同じ職場で太陽光発電の仕事をしていた教授に相談したりもして、その教授も私が太陽光発電の仕事をするのだと信じていたのに、研究所で私を選んでくれた、すなわち採用してくれたのは太陽光発電の研究室じゃなかったんです。それでも自分の仕事が社会の役に立っていると思えればずっと続けたのでしょうが、そうは思えなかったのです。公務員ですから、給料は国民の皆様の「税金」です。その税金を使って自分の楽しみのために仕事をしていて良いのだろうかという疑問がありました。ノーベル賞受賞者など他の分野の多くの研究者の存在を知って、彼らの話をテレビ番組で聴いた今の私なら「それでいいんだよ」と声をかけるでしょうが、当時の私はそうは思えませんでした。
当時、将来の役に立つ新しい研究を始めるために「脳と心」の関係について勉強していて、その過程で心理カウンセリングの存在を知りました。しかも職場に心理カウンセリングが必要だと思われる人がいたり、 心理カウンセリングが必要だと思われる事があったりして、私の仕事よりもそっちの方が役に立つんじゃないかと思いました。それで、そっちの仕事がしたくなって、私にとって区切りの良い6年間で退職しました。
実は「電子技術総合研究所」を辞めた後も迷いがありました。民間で取得できる心理カウンセラーの資格ではなく「臨床心理士」という資格が欲しかったのですが、私の場合は文系の大学に入り直さなくてはいけなくて、それは受験から遠ざかっていた私にとって高いハードルでした。迷いながら放浪している間に多くのうつ病患者が家族や世間に理解してもらえずに苦しんでいることを知って、彼らを助けるには精神保健福祉士になった方が良いのではないかと思って精神保健福祉士になることに決めたわけです。
役に立たない仕事を辞めて精神保健福祉士になって役に立つ仕事をするために故郷の市原市に帰ってきたのですが、現在の私は無職です。役に立つ仕事どころか、何の仕事もしないまま25年以上が過ぎました。あっ。1996年3月に「電子技術総合研究所」を辞めた後、放浪中に半年くらいのアルバイトを3回。それから元の職場に戻って2年間は仕事をしてましたから「何の仕事もしないまま」は言いすぎですね。でも、気持ちはそんな感じです。
「起業すれば良い」とか「NPO法人を立ち上げれば良い」とか私を叱責するような意見もあるとは思いますが、そもそも私は必要とされているのでしょうか。私がやろうとしている仕事は必要とされているのでしょうか。精神保健福祉士になった当初は燃えていました。でも、精神医療に関するメーリングリストで精神障碍者たちの意見を聴いているうちに自分の熱意に疑問を感じたんです。私がやろうとしていた仕事は求められていないと感じたんです。精神保健福祉士のことを嫌っている精神障碍者もいました。彼らのことを理解できるのは彼らだけで、彼らのことは彼ら自身の力で解決したい。彼らが力を貸して欲しいと願った時だけ力を貸して欲しい。そう感じたんです。私は決めました。「求められなければ仕事をしない」と。精神保健福祉士としての仕事に限りません。全ての仕事で「求められなければ仕事をしない」と決めました。それが今の私です。
今年の正月に大学の同期生から年賀状が届きました。理系の大学を出て理系の会社で理系の仕事、確か一流のメーカーの研究者をしていた彼が精神保健福祉士の試験を受けるということでした。今週末に届く来年の年賀状には「精神保健福祉士になりました」と書いてあるかもしれません。彼が精神保健福祉士になろうとした理由は分かりません。今朝投函してきた年賀状には『「私たち抜きで私たちのことを決めないで」を忘れないで』と書きました。障碍者や認知症患者たちの思いです。合言葉です。"Nothing About Us Without Us!" です。精神保健福祉士になった彼が精神障碍者の役に立つ精神保健福祉士になることを祈ってます。